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鳴子温泉の魅力を
つくり・つたえ・つなげる
株式会社こしき 代表 櫻井尚道の想い
こけし作りへの想いと、
鳴子温泉への想い
私が育った東北宮城県の鳴子温泉は江戸時代より湯治場として栄え、山形、秋田、岩手の農家、漁師の方々の癒しの場、交流の場として発展を続け、著名な文化人や芸術家、作家も多く訪れていました。
私は1988年に鳴子温泉のこけし屋で生まれ育ちました。幼少期から中学生までの記憶に残っているのは、父や近所の方々が話す、賑やかで、華やかなそれまでの鳴子温泉ではなく、お客さんの少ない鳴子温泉の風景です。中学生になる頃には閉まるお店や旅館が増え、鳴子のこけし屋さんも専業ではなくなる方や、職業が変わったりしていまいた。
そんな鳴子温泉で過ごしていても、小さい頃から私もこけしの道に入るものだと思っていました。父や祖父が作るこけしが好きだったのはもちろん、会ったことの無い先代達への憧れもありました。しかし、父と母は自分達の大変な思いを子供にはさせたくないと思っていました。父からは、こけしは自分の代で終わり、後は継がせないと言われていました。大変な仕事であることは一緒に生活して感じていたので、父や母の想いも理解できます。こけし作りへの憧れが残りながらも、鳴子温泉を出て企業に就職し、忙しい日々を送っていました。
会社員として働き3年が経った頃、祖父と母が続けて亡くなり、祖母も末期の癌とわかり、鳴子温泉にいる家族が父ひとりとなりました。そして、家族に、故郷に想いを巡らせるたび、祖父や父の仕事を見ながら、家業のこけし作りに憧れていた頃の気持ちが思い起こされました。
父に鳴子に「帰ってこけしを作りたい」と話すと、父は「 帰ってきてもいい」と言ってくれました。
2014年、家業に就くため、鳴子温泉に戻ってきました。こけしづくりの修行に専念し、工人として早く成長したい想いを抱きながらも、実際は店舗での接客、事務作業、製作場所の整備に加え、家事にも追われる日々を過ごしていました。会社員から、経営する側にもなり、右も左もわからない中で分かっていることは、「今のままではダメだ 」ということ。どうにか変えないといけない。しかし、私が慌ただしい日々を過ごしていても、当然ですが、こけし業や鳴子温泉の賑わいが戻るわけではありません。私が生まれ育った街は、空き店舗が増え続け、解体され空き地や駐車場になり、スーパーもなくなり、銀行がなくなり、幼稚園、学校がなくなり、病院も縮小。生活に必要な施設までも減少し、街の機能が低下し続けているのを実感するようになっていきました。
このまま、日々に追われたままだと『家業』が途絶えることは明らかでした。
鳴子温泉の先人に学ぶ
『鳴子温泉というこの地で作り続けるからこそ、「鳴子こけし」なんだ』
祖父と父が教えてくれた、私が大事にしている言葉です。
この地で、先代達から受け継ぐ『鳴子温泉だからこそ生まれたこけし』を自分も受け継ぎ、途絶えることなく後世に繋ぐためには、工人として技術を磨くだけでいいのか、他に大事なことがあるのか、自分にできることは何なのか、自分がしなければならないことは何なのか。まずは、学ぶことから始めました。
『鳴子温泉について』 『鳴子こけしについて』 『伝統工芸について』 『経営について』 『櫻井家について』
学ぶ中で、祖父や父も含め、鳴子こけし工人の先人達はこけし作りだけをしていただけでなく、新幹線もない時代から、東京に何度も足を運び文化人や、有名作家の方々と交流をしながら様々な活動をしてきたこと。こけしの発展の為に、鳴子温泉そのものを発展させてきたことがわかりました。
祖父の昭二は、お客さんを工房に迎い入れ、自家製の山葡萄ジュースを振舞いながら長く語らう時間を作ったり、お客さんと一緒に山菜を獲りに山に入ったり、時には旅館やタクシーの手配も行い、こけしを売るだけでなく、お客さんには鳴子温泉全体を楽しんでもらい、鳴子温泉の仲間には、お客さんを紹介することで利益の共有を図っていました。
あるこけし蒐集家が「私はこけしを買うために、何度も鳴子温泉に来ているわけではないよ」という言葉を残していました。外から見たら鳴子温泉には、温泉とこけしだけではなく、様々な魅力がある場所だったことがこの言葉から読み取れます。私も一度外に出たUターン移住者として、帰郷してからの暮らしを改めて振り返り、周囲を見渡すと、その魅力は「過去のものだった」、ではなく今も鳴子温泉にたくさん残っていることに気づくことができました。
鳴子峡や潟沼など自然豊かな景観と、その自然の恵でもある温泉はもちろんのこと、昔からあって、今でも残っている「ひと」「もの」「こと」の魅力は、鳴子温泉の風土から生まれ、この地に根付いた魅力であり、これからも途絶えることのない、決して途絶えさてはいけない、鳴子温泉の本質的な魅力なはず。と思えたと同時に、『鳴子温泉というこの地で作り続けるからこそ、「鳴子こけし」なんだ』の真意に触れることができた気がしました。
今のかたちで、次につなげる
小さい頃からお世話になっているお蕎麦屋さんやお菓子屋さん、こけし屋さんを取材し、鳴子の情報を発信するウェブサイトを開設しました。また、当時物置となっていた祖父、昭二の店舗『こけし堂』をリノベーションし、期間限定のカフェとしてオープン。こけしに馴染みがない方、こけしに興味がないに方にも、『こけしを知る』『鳴子温泉を知る』きっかけになる場所としてギャラリースペースを設け、鳴子温泉の「ひと」「もの」「こと」の展示と、この活動に賛同いただいたこけし屋さんを紹介しました。
その後、2017年1月には海外の見本市に参加し、8月に法人化。2018年から雇用を開始し、2019年に祖父が行っていた植林活動を復活させ、2020年には叔父より譲り受けた店舗を活用した「こけし堂 峡-kyo-」をカフェ、ショップとしてオープン。そして現在祖父の工房をリノベーションした体験スペース「こけし堂-山-」を作り、体験型の観光プログラム提供の準備を進めています。
外に魅力を伝え、鳴子温泉へ人を呼び込む。訪れてくれた人には鳴子温泉全体を体感して満喫して帰ってもらう。そしてまた来てもらう。そのために先人は様々な手を尽くし、新しい祭りまで興しました。その祭りも今では70年近く続いています。そのおかげで、今の私は鳴子温泉でこけしを作ることができています。これから先、私が鳴子温泉で暮らす限り、こけしを作り続ける限り、先人の『想い』と鳴子温泉の『本質』を変えることなく、今の時代にあった手段・方法で鳴子温泉の魅力をつくり・つたえ・つなぎ続けたいと思います。
鳴子温泉でこけしを作りたい、鳴子温泉で働きたいと次の世代の人たちに思ってもらえるように。
鳴子温泉には、豊かな暮らしがあるよと、言える街になるように。